泉房穂(前)市長の御言葉を検証する明石市民の会

泉房穂(前)市長の過去の発言を振り返り、明石や日本の将来について考えます

泉房穂市長が、司法修習同期の橋下徹氏から学んだこと・学ばなかったこと(下)行政マネジメント

 

泉房穂市長の大学時代のラグビー仲間であり、かつ、司法修習生同期の政治家である橋下轍氏の政治手法や政治理念をめぐっては、政治学社会学の専門家、あるいはジャーナリストや評論家によって、これまでに膨大な数の論文や論評が発表されてきました。

 

橋下徹氏に関する数多くの論考の中で、多数を占めるのが、橋下氏は大衆ウケする政策を打ち出すポピュリストであり、ナチスファシズムを彷彿させる強引で危うい大衆煽動家だとするものです。前回の記事で取り上げた、小森陽一氏による論文は、その典型例の一つと言えるでしょう。橋下氏について論じた諸文献のうち、おそらく7~8割程度は、このようなある種の金太郎飴的なネガティブな見方が土台にあるように感じられます。

 

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他方で、ファシズムだの危険思想の持ち主だのといった紋切り型講釈から距離をとって、橋下徹氏のマネジメント手腕をポジティブに評価する文献も、数は少ないながら存在します。その例の1つが、後房雄教授による「ポピュリズム型首長の行政マネジメント」という論文です。

  後 房雄
  ポピュリズム型首長の行政マネジメント ―橋下徹河村たかしの事例―
  年報行政研究/52 巻 p. 2-26 (2017)
  https://www.jstage.jst.go.jp/article/jspa/52/0/52_01/_pdf/-char/ja

 

今回は、後教授の論文を参照して、泉房穂市長が、橋下徹氏から学んだこと、学ばなかったことについて、さらに検証していきます。

 

後房雄教授について少しだけ紹介しますと、後教授は、「市民フォーラム21・NPOセンター」という民間団体の代表理事を務めていた政治学者で、市民参画やNPO、協働などに関する著書を多数刊行しています。日本公共政策学会会長を務めるともに、日本行政学会や日本比較政治学会の理事も歴任されています。若かりしときは、アントニオ・グラムシをはじめとするイタリアのマルクス主義思想の研究に傾倒されていたようです。

 

このような経歴からすると、後教授は橋下徹氏のことを危険思想の持ち主だと酷評しているに違いない、という先入観を抱いて、「ポピュリズム型首長の行政マネジメント」という論文を読み始めました。ところが、先入観は見事に裏切られ、この論文では、橋下氏のことが極めて高く評価されていました。もっとも、後教授自身は、「橋下氏の理念や政策志向には反対」のようですが、「政治主導での新自由主義的な経営改革の代用的な事例を生み出した成功例であるということができる。その理念や政策志向に反対だからと言って、そのことを認めないのは公平ではないだろう。」というスタンスのようです。

 

論文には「橋下徹河村たかしの事例」というサブタイトルがついており、橋下徹氏と河村たかし氏の2人のキャラ立ちした政治家を対比する形で、ポピュリズム型首長の特徴や2人の行政マネジメントの実態について考察が加えられていきます。後教授は、結論として、次のように述べています。

 

橋下の前職は弁護士で、河村の前職は国会議員であり、2人とも行政マネジメントの経験のない素人だったことは共通だが、首長としてのマネジメントにおいては、それぞれ成功と失敗の対照的な事例となったというのが私の結論である。単純化して言えば、それは、行政マネジメントの重要性についての認識とその能力が橋下においては明確に存在していたのに対し、河村においては両者ともに欠如していたことの結果だと思われる。

 

こう述べた上で、後教授は橋下徹氏について、次のように評しています。

 

橋下には行政マネジメントの重要性についての明確な認識が当初から存在したと思われるし、それを基礎に、一方では公務員バッシングのパフォーマンスを(特に外部向けに)展開しつつも、内部においては、急速に学習しつつ自分なりのマネジメント・スタイルを形成していったように思われる。

 

府知事時代の行政マネジメントは、橋下にとっても初体験だったわけで失敗や行き過ぎも当然あったと想像されるが、2011年からの大阪市長時代のマネジメントは、橋下の学習能力の高さもあってかなり改善されたと思われる。

 

そして後教授が、大阪市の最高幹部職員にインタビューしたところ、次のような証言が得られたようです。

  • 初期には、あえて人事権を行使して乱暴な人事、二段階抜擢、降格、左遷などを行った。そのことによって、職員は反感を強める方向ではなく、市長の指導に従うようになった。
  • 職員との関係はトップダウンだった。市長からアイデアを出して職員と協議する。協力するタイプ、様子見のタイプ、抵抗して自爆するタイプが2-6-2の割合だった。こうしたやり方ではイエスマンが増えるので、人材養成上は問題もある。市長に意見を言えるタイプの職員をどう育てるかが問題となる。
  • 正式決定の場としての戦略会議(隔週程度)は公開。その前に、幹部会で実質的議論をしていた。事前に担当局長などと市長が直接煮詰めたうえでそこに上程される。その場で市長をチェックするのはかなり勇気がいる。しかし、幹部として具体的な問題事例などを指摘すると、問題点を察知することもあった。
  • 教育委員会への[権限のない]市長の関与など、ボーダーラインの課題については、職員がチェックをかける必要がある。橋下市長は、公開の場でなければ、職員の意見を受け入れて修正するタイプだった。
  • 橋下市長は、子ども子育て、教育関係に強い関心を示した。タブレット配布、クーラー設置、中学校給食、塾代助成事業など。それ以外の分野についてはかなり職員にまかせた。
  • マネジメントとしては府県の方が政令市よりもやりやすい。各種団体との関係が中心だから。政令市では特に住民との関係が直接出てくる。橋下氏は町内会系との関係が苦手だった。それ以外の住民、市民に支持層を作る方向をとった。

 

ちなみに、後房雄教授自身は、元々は河村たけし氏の支援者であり、初回の2009年の名古屋市長選では、河村陣営のマニフェスト作成において中心的な役割を果たしていたようです。市長当選後には「市長の戦略チーム」として河村市長が立ち上げた諮問会議に参画します。しかしながら、河村市長に行政マネジメントへの関心と能力が著しく欠けていたとことに愛想を尽かし、すぐに河村氏から去っていきました。

 

2010年時点で、後教授は、次のように河村市長を批判しています。

自治体の首長には、政治家としての資質と経営者としての資質の両方が必要だというのが私の持論である。河村たかし名古屋市長の1年間を内側から見た評価を率直に言えば、政治家としての能力と人気は抜群である(だからこそ抜本的な議会改革に切り込めた)一方で、経営者としての能力と関心は極端に低い(たとえば、書類管理や会議運営ができない)。その政治家としての能力も、議会との対立構図を作って市民やマスコミにアピールする面では卓越しているが、政治主導の行政経営を推進する面では乏しい

 

振り返ってみて、私や藤岡経営アドバイザーと河村市長との「決裂」の根本的理由は、市長イメージが食い違っていたということにあると考えている。政治主導の行政経営を確立し、マニフェストの項目を着実に実行していくことを期待していた我々と対照的に、河村市長自身の中心的関心は、議員報酬と定数を争点に議会との対立構図を演出して議会解散直接請求から住民投票、議会再選挙というシナリオを実現することに尽きると言ってよい。これはこれで、議会の実態を前提にすれば大きな意義があるが、市政はそれだけではない

 

後教授は名古屋市の局長級の元幹部にもインタビューし、河村市長について次のような証言を引き出しています。

  • 一期目は、住田、山田両副市長(特に後者)がある程度は修正していた。二期目に入ってから、頻繁に人事権を行使し、直言する人を遠ざけ始めた。自分に従いそうな人を抜擢する。気に入らない幹部には、自分の部屋に来るなとまで言う。ある局長が、幹部会への出席を拒否し、部長を代理で出席させた事件もあった。現在では、市長に直言できる幹部は皆無
  • 幹部会で二期目への出馬を表明した時は、全員が下を向いて重苦しい雰囲気になった
  • 正規の意思決定ルートで物事が進まず、2014年5月に就任(2月議会で設置条例可決)したK特別秘書が市長の意を受けて暗躍している。外部の人が、市長(特別秘書)の意向と市の意向が一致せずに困惑するケースも出ている。
  • 市長の最大の問題点は、決して責任を取らず、すべて他人のせいにすること。また、ほとんどが思い付きのアイデア。市長室のホワイトボードに思い付きアイデアを列挙してある。職員側は、無視すべきリストということでMリストと呼んでいた。直接担当者を呼んで指示することが多い。酔っぱらって居酒屋から電話することもある。
  • 職員と相談する前に、記者会見で突然アイデアを発表してしまう。そのあとで、相談を始めても、市長に確たる考え方がなく、結局立ち消えになることも多かった。
  • 外での各種行事には好んで出席する。職員としては市長から関係者に謝辞を述べてほしいが、それは無視し、自分の当面考えていることをしゃべりまくる。その時期は、どこへ行っても同じ話ばかりする
  • 減税の結果、各局一律削減で、施設の保守管理費も削減するので、結局は市民サービスが低下し、費用も長期的にはより嵩む恐れもある
  • 中京都構想、区長の公募など、橋下氏のパクリが多かったが、具体化せずに立ち消えとなった。現在は、名古屋城天守閣の木造復元構想に熱心。東京オリンピックまでに完成は不可能だが、強行しようとしている。

 

以上のように、後房雄教授は論文「ポピュリズム型首長の行政マネジメント」において、橋下徹氏と河村たかし氏という存在感ある2人の政治家を対比する形で、前者を成功例として高く評価し、後者を失敗例として酷評しています。

 

さて本稿は、泉房穂市長が、司法研修同期であるところの橋下徹氏から何を学び、何を学ばなかったのか、という点について検討することを目的としたものですが、果たして、後房雄教授が絶賛する行政マネジメント手法を泉市長は橋下氏から学んだのでしょうか。それとも、河村たかし氏に学びその手法を真似てきたのでしょうか。

 

その答えは、読者の皆さん、明石市民の皆さん各自にお考えいただくとして、本稿ではこれ以上言及するのは止めておきます。なお、後論文の引用部分で、所々に下線部を引いていますが、特段意味はないので、深読みしないでくださいね(^-^*)/

 

 

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